消えたゲームメーカー、ハドソンはなぜ消えたのだろうか

hudson

かつてファミコンブームという時代があった。その中で、任天堂のセカンドパーティーとして隆盛を極めたたメーカーがあった。
その名はハドソン。ファミコンブームに乗って走り、そして消えてしまったこのメーカーはなぜ消えてしまったのだろうか。
今回はゲームメーカー、ハドソンに焦点を合わせてみたい。

札幌の雄

ハドソンが産声を上げたのはまだパソコンが現れる前、1973年にアマチュア無線の販売ショップがその原点だという。
アマチュア無線機器の販売から1979年にシャープのパソコンの販売を開始。
そこでオリジナルのソフトウェアを開発し、大きな利益を上げたことにより、シャープにハドソンありと言われるほどの規模へと成長していった。
MZ-700というホビーパソコンでは、MS-DOS互換のHu-DOSを開発、標準添付されるなど高い技術力を持っており、業界では屈指のソフトハウスとなっていった。
また、1984年に誕生した家庭用ゲーム機ファミリーコンピュータでは、その初期からソフトウェア開発にあたり優遇処置を受けたメーカーの一つともなった。
生産を任天堂に委託しなくてもよい事や年間発売本数の制限を受けないことを受け、自社がパソコンゲームとして発売したゲームの移植や他社のアーケードゲームの移植、ファミコン初期であったこともあり売り上げも高く、外れもあったとはいえ平均して高い品質のゲームを供給し続けていた。
中でも、ロードランナー、チャンピオンシップロードランナーなどは移植元となったブローダーバンド社をもうならせるほどの出来栄えで、技術力のハドソンを見せつける結果となった。ほかにも自社の名作とも迷作ともいわれる、サラダの国のトマト姫や、テーカン(テクモの旧社名)がアーケードに出していたスターフォースのファミコンへの移植など、家で遊べるアーケードゲームを数多く輩出していくことになる。
そして、このファミコン時代に行ったイベントで、忘れることができないのが「全国キャラバン」だ。
この全国キャラバンは宣伝などを兼ねた全国規模でのゲーム大会で、デパートなどに特設会場を設置し各地でゲーム大会を行っていく。

高橋名人による名人ブーム

この時に中心となった人物が高橋利幸、高橋名人である。高橋名人はファミコン名人と銘打ってゲームの指導役を行っていた。
チャンピオンシップロードランナーを日本一早く攻略した人、秒間16発の連打でシューティングゲームを攻略していくなどそのアピール度は高く、各地で人だかりができるほどだった。
もっとも、チャンピオンシップロードランナーに関しては、ハドソンが開発しているので、一番最初に攻略するのも当たり前のこと。16連打に関しては実は最大で17連打以上をマークしていたが、コンピューターで利用する16進数にかけて16連打としたという。どちらにしても、痙攣うちと言われる方法で秒間16連打はかなりのものである。
キャラバンに話をもどそう。このイベントは南側と北側から始まっていき、各地で小学生を中心としたファミコンゲーマーを熱中させた。南キャラバンには高橋名人が、北キャラバンには毛利名人がそれぞれ担当して各地を回り、大盛況となった。
最初のキャラバン1985年に前述のスターフォースが使われ、その翌年1986年にはハドソンオリジナルのシューティングゲーム、スターソルジャーを利用してキャラバンが行われていった。このスターソルジャーのキャラバンは、二人の名人による映画の影響もあり、大きな盛り上がりを見せハドソンとキャラバンという二つの名前を紐づけることになった。
この高橋名人のブームによって、ハドソンは他社以上に名をあげてついには自社でハードウェアを出そうと模索するところにまで至った。
ちなみにこの当時は名人ブームがあり、バンダイの橋本名人、ナムコの河野名人などが現れたが、いずれも短命に終わっている。

天下取りの野望

そして、その後ハドソンはCPU開発にまで手を染める。ファミコンに搭載されたモステクノロジー6502のカスタムチップだったリコーRP2A03と同じく6502をベースとしたカスタムチップを開発。それと同時にグラフィックチップなども開発しHuシステムとしてファミコンより大幅にグラフィック・サウンドをパワーアップさせた。
そして、そのシステムを利用して開発、発売されたのがPCエンジンである。
発売こそNECホームエレクトロニクスだが、ソフトウェア、ハードウェアともに開発の中心にいたのはハドソンであり、ゲームソフトもハドソンがメインとなって開発をしていった。
ハドソン単体ではハードホルダーとしての体力にかけるため、コア構想という今でいうセットトップボックスのような構想を持ち上げてNECと提携。長年のパートナーであった任天堂に対抗し始めた。
その初期こそヒット作を出しているが徐々に売り上げを落とす。3年先行して発売したというメリットがあるにも関わらず、任天堂のスーパーファミコンには対抗することができなかった。とはいえ、ソフトウェアとしてはハドソンがファーストパーティーとして様々なソフトを開発していたため、PCエンジンで無ければできないソフトもあったため、対抗というよりは棲み分けができていたという言い方もある。
ハドソンはPCエンジンのファーストとしてだけではなく、ファミコン最後のソフトとなった高橋名人の冒険島4なども提供し、ファミコンのサードパーティーとしての働きも続けていた。
この辺がほかのハードホルダーと異なる部分といえる。
PCエンジンの事業が失敗に終わり、パートナーだったNECがゲーム機事業から撤退。さらに世の中はバブル崩壊というつらい時代へと突入していく。

そして斜陽の時代へ

毎年のように焼き直ししただけのような桃太郎電鉄(通称桃鉄)を出し、対戦型のボンバーマンを焼き直しでで出して行く一方で、任天堂のセカンドパーティーとして下請け開発を数多く手がけ、安定した業績を上げることに成功していた。特に、Nintendo64から続いていたパーティーゲーム、マリオパーティーはそのほとんどの開発をハドソンが行っており、相変わらずの技術力を垣間見ることが出来る。

そんな中、ハドソン最後の花火だったのが2006年、完全とは言えないまでも全国キャラバンを復活。懐かしい黄色いキャラバンカーを走らせ、そこに寄せ書きを貼っていくというイベントを行った。このときすでに会社の解散などが考えられていたのかもしれない。すべての場所ではないが、高橋名人も参加しての懐かしいキャラバン、当時子供だった人たちも胸を熱くして参加していたという。そして、子供だった頃にあったキャラバンを自分が大人になって、子供を連れていけるという事にいろいろな思いを込めた人も多いという。

技術力の高さはあったが、オリジナリティに優れたというところがなく、前述のスターソルジャーもスターフォースというお手本があったからこそ排出できたソフトウェアで、のちの主力となるボンバーマンはパソコンゲーム時代の爆弾男というソフトをリメイクしたようなものであった。また、ほかのハードホルダーが持っていたような魅力あるキャラクターを作ることができなかったため、イメージキャラクターのようなものを作ることもできなかった。
任天堂にはマリオやリンク、その他多くのキャラクターがいるようにソニーにはトロとクロが、セガにはソニックが記憶に残るキャラとして作成されている。ハドソンはしいて言えばボンバーマンかもしくはメーカーのロゴにあったハチ助くらいのものだ。これは魅力あるキャラクターなどを作り出すことができなかった、

もしも拓銀が破綻しなかったら、もしもPCエンジンで任天堂と袂を分かつ事がなかったら、もしもハドソン時代にパズドラを出せてたら…そんな空想にひたるのもおもしろいかもしれない。

2件のコメント

    1. 法人格がなくなっても生きていると思うのは自由ですが、ハドソンブランドもすべてコナミに統一されていますが。
      それでも生きているんですね。初耳です。

コメントを残す