昔話 EPSON98互換機の挑戦

EPSON PC-98互換機。
かつて日本に存在した、PC-98アーキテクチャーを使用したNECのPC-9801シリーズ、その唯一の互換機メーカーであったEPSON。
今回はちょっと古いが、@tknriiiiが長年使っていて個人的に思い入れがあるEPSON98互換機について書いて行こうと思います。
やや思い出しながらなので、一部誤った表記があるかもしれませんが、ご愛敬と思ってくださいまし。

そもそもPC-98アーキテクチャーって?

ここを見に来ている人の中にはPC-9801自体をあまり知らない人も居るかもしれません。
ものすごく簡単に説明すると…
1982年から1997年頃まで、日本のパソコンの圧倒的なシェアを誇っていたのがPC-9801シリーズで、その設計の元になっているのがPC-98アーキテクチャーです。
日本語処理を高速に行うことを前提として、日本語漢字のVRAMを搭載した事などで一時期は日本のパソコンシェア90%を誇っていたこともあるというお化けアーキテクチャーです。
日本語処理に長けた日本人による日本のためのアーキテクチャーだったような気がします。
そのPC-98アーキテクチャーを解析し、独自部分を搭載して販売を開始したのがEPSON PCシリーズで、基本ベースはこのPC-98アーキテクチャーなので、一般的には98互換機と言われていました。

訴訟問題

もちろん、互換性をもつと言うことは、NECの著作権を侵害している可能性があるわけで、初期はその訴訟問題がつきまとった。
特に初期モデルでは、BIOSがNECのものをパクったとして、販売差し止めになるという事すらあった。
その後すぐにオリジナルのBIOSを搭載したモデルを開発し、1987年PC-286 model 0を発売。
売れ行きはいまいちだったが、ソフトウェアの充実によって徐々に上向き始める。
本当かどうかは知らないがこのBIOSは、最初からクリーンルーム設計(一から自社開発したもの)を事前に用意しており、著作権上「クロ」と判断された初期モデルに何故わざわざ「クロ」となるBIOSを搭載したのか、理解に苦しむといった発言がNEC開発者からあったとか。
まあ、考えてみればそうですね…わずか数日の間にクリーンルーム設計したBIOSが作れるわけでもなく、用意していたならば何でそれを使わない。
その後も訴訟問題は続くが、1987年11月に和解金をEPSONが支払うことで和解し、晴れて互換機メーカーとして出発をすることとなった。

そして、躍進

続けざまにPC-286U、PC-286Vなどを発売し、徐々にシェアを拡大。
和解が成立した頃には、月のパソコン売り上げのシェア20%をとるほどにもなった。
そもそも、NECのPCに比べて2割~3割ほど安く、性能も高いので個人ユーザーをメインに普及が進んでいき、NECもそれを黙ってみているわけにはいかなくなってしまう。
そして、NECはEPSONチェックと言われるプロテクトを施すようになった。
これは、NECが出しているソフトウェアおよびサードパーティーのソフトウェアにNEC以外のPCでは動かないようにするためのプロテクトをする事である。
といっても、EPSONも負けてはおらず、そのプロテクトを外すソフトとしてSIPと言われるパッチ集を配布していた。
これを利用することで、プロテクトを解除することが可能となっていた。
広告では、「国民機」を名乗り、互換機でありながら大胆な手法をとっていくなど、シェア拡大に躍起になっていた。
しかし、あくまでも98互換機でありNECの廉価モデルという位置づけに過ぎなかった。 
ちょうど、中嶋悟の個人スポンサーでF-1ブームに乗って多くの媒体にその名前が取り上げられるようになり、98互換機も売り上げは上々であった。
インテルの386CPUがリリースされると、高速な286であれば386は必要がないと、搭載機の発売を遅らせてシェアを落とす。
巻き返しを図り、Intel486がリリースされると、先に発売されたPC-9801FAとほぼ同価格で、PC-486GRをリリースした。
FAに搭載されていたのは486SX 16MHzであったが、GRにはそのクロックを凌駕する25MHzのCPUを搭載。
さらにFM音源なども搭載してFAと同価格帯。販売店によっては値引率がFAより高かったためにFAよりも安く、高速でなおかつFM音源まで搭載している、そんな当時としては夢のようなマシンに仕上がりました。
当然、売れないわけがありません。
たちまちベストセラーとなり、生産が追いつかない状態にまでなり、EPSONここにありを見せつけたPCとなりました。
まさに、EPSON98互換機が本家98を追い抜いた絶頂期だったといえるでしょう。

コンパック・ショックと凋落

しかし、それも長くは続きませんでした。
コンパック・ショックと言われるIBM PC/AT互換機の格安PCの登場、windowsによる機種依存の低減によって、98アーキテクチャーは窮地に立たされることになります。
そのあおりを一番受けたのは本家NECではなく、NECよりも安いというからこそ売れていたEPSON98互換機でした。
98互換機よりさらに安いIBM PC/AT互換機によって価格のアドバンテージは無くなり、それに対抗するためにNEC自身がパソコンの値下げを敢行したことから、NECより安くて早い98互換機はNECと変わらない98互換機へと変わってしまいます。
価格重視のユーザーは、PC/AT互換機へと流れていき、過去のMS-DOS遺産を持たないユーザーはわざわざ98互換機を買う必要がなくなってしまいました。
また逆に言うと、98互換機を作っていく必要もなくなってきます。
オープンな規格であるPC/AT互換機を作ればいいのです。
1995年6月、事実上の最終マシンであるPC-586RJ/RT/RS、PC-486MEがリリースされます。
まだ日本ではwindows95すら発売されていない頃です。
これらを含めて486CPUを搭載したEPSONーPCはクロックを386相当へダウンさせるスイッチがついているなど、MS-DOS環境でのゲームなどを考慮した設計がされていました。
しかし、もはや太刀打ちができないほど広まったPC/AT互換機への流れ、NECの価格戦略に対して撤退します。
1987年から数えて8年目の事でした。
その後、98互換機版windows95を最後のサポートとして発売しますが、そのグラフィックドライバのできの悪さ、なし崩しの撤退などにユーザーの不信感はあったと思います。
どうもグラフィックチップを使わずにCPUの力だけで画面を表示させていたようで、本当にひどいものでした。

その後の98互換機

2003年にNECがPC-98アーキテクチャーを捨てたあと、一部サードパーティーが互換機を出していたが、現在では486CPUの生産終了に伴い販売を終了しています。
EPSONは98互換機の生産をやめてから98/Vというソフトウェアエミュレーターを出し、対応するハードウェアも販売しています。
今では、NEC自身もPC/AT互換機互換機をレノボと合併させた会社に任せてPC事業からは事実上の撤退をしている。
今では、98アーキテクチャーを知らない人も増えてきている事でしょう。
後に当時のEPSON社長であった木村氏は「あと1年早く撤退していれば、名経営者と言われたかもしれない」と語った。
そう、あと1年早く撤退していれば、誰もあんな外れのwindows95をつかまされる人も少なかったでしょう。被害者は少なくて済んだ事でしょう。
EPSON98互換機を3台買った私は、最後のお粗末さに少々寂しさを感じていました。
同じように考えたユーザーは居たでしょう。
現在では、EPSONはプリンターメインのメーカーへなっています。
あの終焉の衝撃、私は忘れません。いつまでも。(だからこそ今更こんな事を書いているわけですし(笑)

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コメント (2)
  1. F16000 より:

    懐かしい、、、懐かし過ぎる。。。
    わたしゃ9801初代からRA21まで全部並べて喜んでました。
    640×400の解像度で黒い画面に白い文字で呪文を打ち込んでました。

    変わり種のCVとかもMacPlusのモロパクリだけど面白かった。

    RA21なんてオンボードメモリ1.2MbだよHDDは40Mbだよ。
    40Mbで宇宙空間よりも広大だと思っていたよ

  2. かな より:

    一応グラボ活用したドライバを半年後位に出してくれたので、98年位までは現役で使えたよ

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