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カテゴリー: column

  • やらかしちゃったauは今後のiPhone販売に暗雲立ちこめるか

    最近のホットなニュースとして、auがやらかした事が大きく取り上げられています。何でこんなことになったのか、そもそもLTEでAndroidとiPhoneでなんで違うんだよ。というところを考えてみましょう。AndroidとiPhoneで違う点は、利用できる周波数が異なるというところが挙げられます。例えば、Android端末で利用できる周波数帯は800MHzをベースに2.1GHzをサブにという風に複数の周波数帯を利用するようになっています。

    これは単に端末の設計に関する部分であり、auが悪いという事ではありません。

    SoftBankも同じ端末を利用していますが、もともとSoftBankはiPhoneで利用可能な2.1GHzをベースにしており、iPhoneだけを考えるとSoftBankの方が明らかに有利な展開をしています。
    これに対してauは800MHzをベースにしているため、iPhoneで利用できるLTE周波数帯が大きく異なる事になります。

    何でAndroidとiPhoneでエリアが違うんだろう

    ここで、なぜ2.1GHzだけしか使えないんだ、というところに関して少し説明します。
    LTEは規格でいくつかの周波数を分けて「バンド」としています。今のところ有効なバンドは1〜28までとなっており、通常はバンド1とかバンド3という呼び方をしています。
    SoftBankの利用するGSM版とauが使うCDMA版、両方とも日本の携帯キャリアが利用できる周波数帯で対応しているのは「バンド1」と「バンド3」の二つだけなのです。そして、バンド1というのが2.1GHz帯として利用できるバンドです。
    ちなみに、バンド3は現在イーアクセス(イー・モバイル)が利用している周波数帯で、SoftBankによる買収でSoftBank版iPhoneはこの2つのバンドを利用することが可能になりました。iPhone万歳のSoftBankらしいやり方ですね。
    auはiPhoneを販売していますが、Androidも力をいれています。そして、LTEに関していえばバンド18(主力の800MHz)とバンド11(1.5GHz帯)をAndroid用に利用しています。つまり、エリア展開としてはiPhone優遇をしているというわけではありません。
    この使える周波数帯というのは端末に搭載されている通信チップによって決まるため、Appleが対応をしないことには変化が起きることはありません。

     

    auのサイトではAndroidのLTEマップはあってもiPhoneの対応エリアは住所一覧しかありません。また、住所一覧も検索によって表示されるエリアと75Mbps対応エリア一覧では差異が見られます。つまり、検索した時に出てくるのはLTEでも37.5Mbpsエリアで、一覧表のみ75Mbpsを表示させているようです。
    それだけエリア展開に自信がないんでしょうね。

    auの寂しいエリアも『お察しください』

    ひとつだけ擁護するとすれば、auは昔から通信方式において悩まされてきました。古くはハイキャップ方式を導入しようとするもセルラー各社の足並みが揃わず、アメリカからの政治圧力もありTACS方式を採用し、PDC方式も一時期導入するが後発となりシェアも上がらない。そして、新しくCDMA Oneを導入するに至るなど、GSM以外の通信方式を一度は採用しているような過去があり、今回もまたCDMA EVOーDOから新しくLTE網を構築して行くなど、また迷走を始めたという感じになっています。
    だから、こういうことも起きる可能性があったんではないかな。と擁護にならない擁護をしてみます。

    まあ、個人的にいうならば、iPadを利用していますけどLTEだから、3Gだからでそれほど違いを感じることがありません。自宅ではWi-Fi運用なので固定回線につながっていますしLTEもそれなりに入りますし。
    私の場合、京急線なので横須賀市内はトンネルだらけでそもそも通信できないことも多いし、都心部へ出れば大体LTEで繋がる。
    3Gも最大9Mbps出てればそんなに文句はないんですけどね。3Gのみの契約よりもパケット代なども安いですし、通話は高いけど。

    今回は結構大きなニュースとして扱われていましたが、過去にはSoftBankも黙って64kbps制限をかけた事があったり、3G回線では強い帯域制限をかけたり、docomoもXiサービスインの時には混乱を招いたり未だにバッテリーの持ちが悪かったりと問題があります。
    スマホにしたからっていいことがないという人もいますし、まだしばらくはこういった混乱が起きるのかもしれませんね。 

  • 消えたゲームメーカー、ハドソンはなぜ消えたのだろうか

    hudson

    かつてファミコンブームという時代があった。その中で、任天堂のセカンドパーティーとして隆盛を極めたたメーカーがあった。
    その名はハドソン。ファミコンブームに乗って走り、そして消えてしまったこのメーカーはなぜ消えてしまったのだろうか。
    今回はゲームメーカー、ハドソンに焦点を合わせてみたい。

    札幌の雄

    ハドソンが産声を上げたのはまだパソコンが現れる前、1973年にアマチュア無線の販売ショップがその原点だという。
    アマチュア無線機器の販売から1979年にシャープのパソコンの販売を開始。
    そこでオリジナルのソフトウェアを開発し、大きな利益を上げたことにより、シャープにハドソンありと言われるほどの規模へと成長していった。
    MZ-700というホビーパソコンでは、MS-DOS互換のHu-DOSを開発、標準添付されるなど高い技術力を持っており、業界では屈指のソフトハウスとなっていった。
    また、1984年に誕生した家庭用ゲーム機ファミリーコンピュータでは、その初期からソフトウェア開発にあたり優遇処置を受けたメーカーの一つともなった。
    生産を任天堂に委託しなくてもよい事や年間発売本数の制限を受けないことを受け、自社がパソコンゲームとして発売したゲームの移植や他社のアーケードゲームの移植、ファミコン初期であったこともあり売り上げも高く、外れもあったとはいえ平均して高い品質のゲームを供給し続けていた。
    中でも、ロードランナー、チャンピオンシップロードランナーなどは移植元となったブローダーバンド社をもうならせるほどの出来栄えで、技術力のハドソンを見せつける結果となった。ほかにも自社の名作とも迷作ともいわれる、サラダの国のトマト姫や、テーカン(テクモの旧社名)がアーケードに出していたスターフォースのファミコンへの移植など、家で遊べるアーケードゲームを数多く輩出していくことになる。
    そして、このファミコン時代に行ったイベントで、忘れることができないのが「全国キャラバン」だ。
    この全国キャラバンは宣伝などを兼ねた全国規模でのゲーム大会で、デパートなどに特設会場を設置し各地でゲーム大会を行っていく。

    高橋名人による名人ブーム

    この時に中心となった人物が高橋利幸、高橋名人である。高橋名人はファミコン名人と銘打ってゲームの指導役を行っていた。
    チャンピオンシップロードランナーを日本一早く攻略した人、秒間16発の連打でシューティングゲームを攻略していくなどそのアピール度は高く、各地で人だかりができるほどだった。
    もっとも、チャンピオンシップロードランナーに関しては、ハドソンが開発しているので、一番最初に攻略するのも当たり前のこと。16連打に関しては実は最大で17連打以上をマークしていたが、コンピューターで利用する16進数にかけて16連打としたという。どちらにしても、痙攣うちと言われる方法で秒間16連打はかなりのものである。
    キャラバンに話をもどそう。このイベントは南側と北側から始まっていき、各地で小学生を中心としたファミコンゲーマーを熱中させた。南キャラバンには高橋名人が、北キャラバンには毛利名人がそれぞれ担当して各地を回り、大盛況となった。
    最初のキャラバン1985年に前述のスターフォースが使われ、その翌年1986年にはハドソンオリジナルのシューティングゲーム、スターソルジャーを利用してキャラバンが行われていった。このスターソルジャーのキャラバンは、二人の名人による映画の影響もあり、大きな盛り上がりを見せハドソンとキャラバンという二つの名前を紐づけることになった。
    この高橋名人のブームによって、ハドソンは他社以上に名をあげてついには自社でハードウェアを出そうと模索するところにまで至った。
    ちなみにこの当時は名人ブームがあり、バンダイの橋本名人、ナムコの河野名人などが現れたが、いずれも短命に終わっている。

    天下取りの野望

    そして、その後ハドソンはCPU開発にまで手を染める。ファミコンに搭載されたモステクノロジー6502のカスタムチップだったリコーRP2A03と同じく6502をベースとしたカスタムチップを開発。それと同時にグラフィックチップなども開発しHuシステムとしてファミコンより大幅にグラフィック・サウンドをパワーアップさせた。
    そして、そのシステムを利用して開発、発売されたのがPCエンジンである。
    発売こそNECホームエレクトロニクスだが、ソフトウェア、ハードウェアともに開発の中心にいたのはハドソンであり、ゲームソフトもハドソンがメインとなって開発をしていった。
    ハドソン単体ではハードホルダーとしての体力にかけるため、コア構想という今でいうセットトップボックスのような構想を持ち上げてNECと提携。長年のパートナーであった任天堂に対抗し始めた。
    その初期こそヒット作を出しているが徐々に売り上げを落とす。3年先行して発売したというメリットがあるにも関わらず、任天堂のスーパーファミコンには対抗することができなかった。とはいえ、ソフトウェアとしてはハドソンがファーストパーティーとして様々なソフトを開発していたため、PCエンジンで無ければできないソフトもあったため、対抗というよりは棲み分けができていたという言い方もある。
    ハドソンはPCエンジンのファーストとしてだけではなく、ファミコン最後のソフトとなった高橋名人の冒険島4なども提供し、ファミコンのサードパーティーとしての働きも続けていた。
    この辺がほかのハードホルダーと異なる部分といえる。
    PCエンジンの事業が失敗に終わり、パートナーだったNECがゲーム機事業から撤退。さらに世の中はバブル崩壊というつらい時代へと突入していく。

    そして斜陽の時代へ

    毎年のように焼き直ししただけのような桃太郎電鉄(通称桃鉄)を出し、対戦型のボンバーマンを焼き直しでで出して行く一方で、任天堂のセカンドパーティーとして下請け開発を数多く手がけ、安定した業績を上げることに成功していた。特に、Nintendo64から続いていたパーティーゲーム、マリオパーティーはそのほとんどの開発をハドソンが行っており、相変わらずの技術力を垣間見ることが出来る。

    そんな中、ハドソン最後の花火だったのが2006年、完全とは言えないまでも全国キャラバンを復活。懐かしい黄色いキャラバンカーを走らせ、そこに寄せ書きを貼っていくというイベントを行った。このときすでに会社の解散などが考えられていたのかもしれない。すべての場所ではないが、高橋名人も参加しての懐かしいキャラバン、当時子供だった人たちも胸を熱くして参加していたという。そして、子供だった頃にあったキャラバンを自分が大人になって、子供を連れていけるという事にいろいろな思いを込めた人も多いという。

    技術力の高さはあったが、オリジナリティに優れたというところがなく、前述のスターソルジャーもスターフォースというお手本があったからこそ排出できたソフトウェアで、のちの主力となるボンバーマンはパソコンゲーム時代の爆弾男というソフトをリメイクしたようなものであった。また、ほかのハードホルダーが持っていたような魅力あるキャラクターを作ることができなかったため、イメージキャラクターのようなものを作ることもできなかった。
    任天堂にはマリオやリンク、その他多くのキャラクターがいるようにソニーにはトロとクロが、セガにはソニックが記憶に残るキャラとして作成されている。ハドソンはしいて言えばボンバーマンかもしくはメーカーのロゴにあったハチ助くらいのものだ。これは魅力あるキャラクターなどを作り出すことができなかった、

    もしも拓銀が破綻しなかったら、もしもPCエンジンで任天堂と袂を分かつ事がなかったら、もしもハドソン時代にパズドラを出せてたら…そんな空想にひたるのもおもしろいかもしれない。

  • インターネット昔話〜夜逃げしたISP

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    前回、料金に関する事を書きましたが、そこで触れたADSLと共に来た大幅な利用料金の下落。これによってダイヤルアップ時代になりたっていた二次プロバイダは存続の危機に見まわれます。細々と、小さい規模で営業を続けていた各社は、バックボーンの増強と料金体系の変更に追われていきます。

    その結果、体力のない弱小ISPは廃業や撤退を余儀なくされました。

    インターネットバブルの時代

    日本ではインターネット黎明期に個人からのしあがったISPもありました。その代表例と言われているのがベッコアメ・インターネットです。東芝にいた一個人がインターネットプロバイダに目をつけ、サラ金から資金を貸り六畳の部屋にモデムを積み上げて起業したと言われています。

    このような成功事例もあり、多くのシステムベンダーも負けじと事業を展開していきました。まさに「雨後のたけのこ」の様な時代です。しかし、こうしたインターネットバブルは常時接続とブロードバンド化の波によって破綻していきます。米国でもドットコムバブルと言われる物がありましたが、同じように日本でも第二のバブル期があったのでした。

    地域密着とは聞こえは良いが…

    二次ISPは自らExchangeに接続していないISPの事で、主にOCN(NTT系)やKDDIの下にぶらさがっているISPの事で大手ISPでは補完できない地方や、人口比率のわりに回線が細い地域のアクセスの分散という意味もあった。ただ、上位には通信キャリアがいるので、インターネットバブルとはいえど経営は楽な物ではなかった事でしょう。

    地域密着型と言えば印象は良く思えるが、早い話小規模ISPなので経営基盤の脆い所がほとんど。統廃合、単に廃業や倒産も多々見られました。準大手とも言える、ソフトメーカー主導のISPでさえ消えるところが少なくない状況でさらに小規模のISPでは経営に行き詰まるのも時間の問題でした。

    私もあまり大手のISPは利用せずに、小さなISPを渡り歩いて来ました。例えば富士ソフトABC(現・富士ソフト)が運営していたFSIネットや中規模なJust net(現在はSo-netに売却されたジャストシステムのISP)、DTIはネットゲームで遅延が少ないと聞いて入会したりもしました。

    その中でもう一社、ブレーメンネットと言う神奈川を中心とした中小ISPを利用していました。ここは同じ運営会社でエンジェルネット、カナルネット、ブレーメンネットの3つのブランドを使用し、川崎では町内会のWebサイトを構築、運営している所もありました。正しい地域密着型ISPの姿だったのかもしれません。

    突如繋がらなくなる

    2006年、突如としてこのISPに繋がらなくなってしまいました。経営に破綻し電気通信事業者としては違法にあたる『夜逃げ』をしてしまうのです。この事態にユーザーは戸惑い、なにが起きたのか事態を把握する事ができませんでした。これも当たり前の事で、ユーザーは情報ツールとしてのインターネットをいきなり失ったのですから。調べるにもネットに繋がらない。もちろんISPは逃げているのですからサポートの電話も繋がらない。まさに二進も三進もいかない状況になってしまったのです。それも自身の問題ではなく、ISPの都合によるものなのです。まず怒りよりもメールをどうするか、新しくISPの契約をするにしても、オンラインサインアップもできない。失ったインターネットへの接続手段を復活させなくてはなりません。

    やがて落ち着くと年間一活払いにいた料金はどうなるのか、サービス停止までの補償はどうなるのか。色々と考えてみるのだが、すべては後の祭り。業者が逃げてしまっている以上どうにもすることはできない。悲しい現実だけが残ってしまいます。そして、この事件はもうひとつ大きな問題を残していました。

    電気通信事業法では、事業の廃止について事前に何らかの方法で利用者に伝達することが明記されている。これに違反すると200万円以下の罰金刑に処せられる。まず第一にこの法律違反が挙げられる。もう一つの大きな問題とは、夜逃げ騒ぎの後に事務所を捜索したところ、契約者の個人情報が入ったサーバーが無くなっているのが確認されました。これは2005年に施行されたばかりの個人情報保護法にも抵触する問題です。この消えたサーバーには契約者の口座やクレジットカード番号も入っていたと言われています。つまり、場合によっては大きな詐欺事件に利用される恐れがありました。幸いなことにとりあえず今までに犯罪に利用されたとは聞いていません。

    被害は小さな物でしたが……

    私は当時OCNとADSLを利用しており、単に解約し忘れていたダイヤルアップ接続用に加入したままになっていました。なので、実害はほとんどなくメールアドレスが利用不可になった事くらいでした。とはいえ、すでにメインはOCNだったのでそれもあまり被害と言えませんし、支払いも月払いのため過払いもありませんでした。しかし、置いといたWebデータはすべてなくなり、バックアップもなく喪失したデータがあったくらいです。

    今思えば私が利用していたISPで今でも残っているのはOCNとDTIくらいで、FSIも売却されて今はPCデポ小会社が運営する小さなISPの一つとなり、ジャストネットもSo-netに売却されてドメインも消滅。ADSL事業者として利用していたアッカネットワークスはイーアクセスに吸収されて消えました。今はj:comで何となく納得して利用していますが、あの頃のさまざまな思い出が甦ります。夜逃げした業者と言うのは今のところここ以外には無いものの、被害金額の小さな事もあり、巨額詐欺事件へと発展した平成電々や未公開株で事件となったMTCIのように大きく取りあげられる事はありませんでした。

    既に一通りの淘汰が終わり、今後このような事件は起こらないかもくれません。いや、起こらない方が良いのです。7年前よりも更にインターネットは身近になり、生活必需品へと変わりつつあります。今、同じ事が起これば……同じ事が起きてもスマホ等があるのであの頃よりは困る事は無いかもしれません。そう考えるとレアな事件だったんだなと今は思える様になりました。
    今回は少し個人的な話になりましたがインターネットがブロードバンド化し始めてから既に15年近く、こんな事もあったんだなあと思ってもらえれば幸いです。

  • インターネット昔話~課金体系の変貌

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    約一年ぶりに書きますインターネット昔話。今回はナローバンド(ダイヤルアップ)時代からブロードバンド時代への変化、そして料金に関することです。なお、料金については単にインターネットサービスプロバイダー(以下ISP)だけではなく、電話料金などについても思い出してみようと考えています。

    課金地獄だったパソコン通信時代

    インターネット前夜、まだパソコン通信が主流だった時代は課金がすべて高額でした。NECが主催していたPC-VANは月額2000円と固定料金だったのに対して、ニフティサーブは従量課金で1分あたり10円の課金、しかも青天井で果てしなく課金されるものでした。チャットなどしようものならば、あっという間に課金がとんでもない事になり、『課金地獄』に陥ります。携帯電話の『パケ死』が死語となったように今ではこのようなものは少なくなりました。

    課金が高い理由は、ニフティサーブはFENICSという富士通で提供されていた閉域網が利用されており、専用線を利用したサービスでしたのでどうしても料金が高くなってしまうものです。実際にそこまで高い料金設定とする必要があったのかどうかは今となっては定かではありません。通信速度は2400bpsから9600bps、そして144000bpsへと上がっていきましたが、ニフティサーブではそれぞれ対応したROADと言うアクセスポイントを用意しており、せっかく高速モデムを購入しても設備が整っておらずに低速通信しか行えないという事もありました。また、高速通信の際には課金も高くなり、1分16円と2400bps通信の2倍(そのころには1分8円課金へと改訂が行われていました)になっていますが、通信速度は6倍。圧倒的な速度で課金は2倍だったため、掲示板のログなどを拾うための短時間接続ではお得になっていることもありました。もちろん、チャットなどをすればとんでもない課金が襲ってくるのですが……。

    その後従量課金から半固定料金、そして完全な固定料金へと変わっていきましたが、その時には徐々にインターネットへの移行も進んでおり、ニフティーサーブとインターネットを両方使う人も多く出てきました。パソコン通信そのものが斜陽の時代へと向かっていった頃です。だいたい1996年までのお話です。

    完全従量制と半固定料金が主だった黎明期

    インターネットの最初のころはやはり従量課金が多く、高いところでは1分10円から、安いところでは3分10円というところもあり様々な課金体系がありました。ここでもニフティサーブ、パソコン通信時代と変わらない青天井の課金がありユーザーは新しい技術に触れるために多くの資金を投入していきました。もちろん、電話料金は別途必要ですのでISPの課金と電話料金を合わせると1万円、2万円と行くこともざらでした。

    1996年には、夜間の電話料金が固定となるテレホーダイというサービスが開始されました。このサービスは夜間11時を超えると翌朝8時までが固定料金となり、毎月の通信費が大きく削減できるので、ヘビーユーザーを中心に利用者が増加していきました。この頃、11時になると一斉にダイヤルアップ接続を開始していた事から、繋がらない(話し中状態となる)ことが多くありました。この現象は常時接続が開始されるまで続き、多くのユーザーをやきもきさせる事が多々ありました。

    半固定料金としては20時間まで1800円、それ以降は3分10円などといった料金体系が多く、サイトの閲覧やEメール……当時はまだ電子メールという言い方をしていましたが、これらを使うだけならば十分と言える料金体系だったこと、前述のテレホーダイなどの効果もあり徐々にインターネットは普及、マニアのおもちゃだったインターネットは一般家庭に普及し始めていきました。

    電話料金の恐怖から解放された人たちは、今度はISPの料金を安くしようと考えます。このころは雨後の竹の子のように多くのISPが誕生しており、今ではあまり耳にしない二次プロバイダ、三次プロバイダと言われているものがあり、地元密着型でアクセスポイントも地域を絞ってサービス展開をする企業がいた時代です。

    中小のISPはサービスの安定性や将来性に不安があったものの格安なものが多く、私が使っていたISPは月額1800円で固定料金と安く利用できていました。しかし、安いという事は理由があるわけで、繋がりにくいアクセスポイントだったりバックボーンが細く、ただでさえ遅いダイヤルアップ接続がさらに遅くなるのもざらでした。

       安く利用できるISPが出てくることでユーザー数も更に増加、中小のシステムベンダーや大手家電メーカー、とりあえずやっていますというようなISPも増え、まだ採算は手探りのままISPだけが爆発的に増加していきました。いわゆるインターネットバブルへ続く時代です。
       ちなみに二次、三次のプロバイダとは直接IX(InternetExchange)につながっていないISPで、上流にOCNを利用していたりKDDIなどを利用して接続回線を維持していました。遅延も大きく回線の太さも制限がありましたがダイヤルアップ時代は回線の太さと会員数のバランスが求められていたため、回線が細めでもシェアする人数によっては十分な速度で繋ぐことが可能でした。

    ADSLサービスによる常時接続の時代へ

    課金体系は徐々に下落する方向へ、完全固定料金にかわるまでそれほど時間はかかりませんでした。そして、1999年ごろから常時接続の波が訪れてきました。これによってISPの課金も電話料金も固定で利用できる、料金でびくびくせずに利用できる事から、インターネット自身が生活の一部と、あって当然という時代が来ました。同時に、課金もほぼ横並びとなりISPは料金メリットだけで選ぶ時代から変わっていってしまい、自社メリットを出すための様々な努力が始まっていきました。

    その中で一社だけとんでもないことを始めるところが出てきます。当時を知っている人ならば、一度は見たことがあるでしょう赤い軍団。駅前に立ち強引にモデムを配り利用者を増やそうとし、さらに必要がないという人にまで料金請求を行い、他社の参入を妨げる行為を繰り返し、安かろう悪かろうを日本中に広げていった悪名高きYahoo!BBです。

    Yahoo!BBの参入前はADSLで6000円が標準の課金で、5480円がひとつのホーダーラインでした。これに対しYahoo!BBは3000円を切る課金を発表、初期の事前予約だけで多くのユーザーの心をつかむことに成功し、インターネットを使っていなかった層まで掘り起こすことになったのでした。

    しかし、開通までの納期がかかったり解約をしたくてもできなかったり、解約手続き中に課金開始月になり請求書が届いたりと大混乱を起こしていました。その結果、他社へ乗り換えを行おうとしても行えないという事も発生し、まさに『安かろう悪かろう』のサービスであることをまざまざと見せつけたところでもありました。

    そんなYahoo! BBのやり方の末、各社は価格を落とさなければならなくなり8Mbpsダイヤルアップ時代では考えられないほどの速度を持ちながら4000円程度で利用できる事も多くなっていきました。同時に価格競争力のない中小のISPは廃業が相次ぎ、大手家電メーカーお抱えのISPもほとんど淘汰されてしまいました。

    最後に私事ではありますが……

    最初にニフティサーブを利用したとき、電話料金は1万円を超えました。そして、ニフティへの支払いも2万円を超えて計3万円程度の課金を支払っていました。多いときには5万円ほど払ったこともあります。ただ、私が使い出してすぐにテレホーダイが始まり、電話料金はかなり押さえられていましたが、その分ニフティに払っていたこともありましたが、おおむね3万程度が標準でした。

    その後、しばらくしてインターネットへ移行し今ではJCOMとメールのみOCNを利用しています。併せて約6000円、当時の十分の一で快適な環境が整っています。ヘビーユーザーでなければもっと安い物もあるでしょう。時代の流れとはいえ、この15年間で下がりきった感じがあるインターネットの料金、飽和したこの世の中でこれからどのような展開となるのか、少し期待しながら見ていきたいと思っています。

  • 見かけなくなった二千円札、いったいどこへ行ってしまったのか

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    二千円札、2000年に沖縄サミットが開催される事、2000年で区切りがいいことから新しい紙幣として発行されることが決まった紙幣です。
    全く新しい紙幣の発行は昭和33年(1958年)に発行された一万円札を最後に発行されておらず、42年ぶりの事でしたし、紙幣の切り替え(五百円札から五百円玉へ)を考えても18年ぶりの事でした。
    また、大きさが変わった一万円札などを考えても16年ぶりと大きくシステムが変わるような変更は久しぶりのことでした。
    戦後発行された紙幣で表紙に人物像が書かれていない2枚目の紙幣でもあり、いろいろな意味で意欲的な紙幣として発行されました。

    前途多難な船出

    しかし、発行前から混乱が見られATM(現金自動預け払い機)の対応や各店舗の社員教育まで、対応することが余りにも多くあり特に釣銭間違いを防ぐために飲食店では入念な研修が行われるほどでした。
    このように、最初から不穏な空気がある中発行された二千円札は、発行当初こそプレミアをねらった人々によって両替されていたが、すぐに飽和。
    付け加えて、金融機関や自動販売機などの対応が遅れていたことから使い勝手が極端に悪く、あっという間にいらない子になってしまいました。
    しかし一部ATM、特にコンビニエンスストアに配置されるATMでは千円札2枚分を1枚でまかなえることから、収納スペースの関係から多く使われており、五千円おろすと二千円札2枚と千円札1枚という払い出しが行われたり、中途半端に8000円おろそうものならば、二千円札が3枚と千円札が2枚出てきたり、五千円札を払い出してもらえない摩訶不思議な払い出しが行われることもありました。
    しかし、利用する側としてはどうも中途半端な二千円札は利用しづらく、長年1と5の札しか使ってこなかった歴史もあることから、払い出されてもすぐに利用して手元に残らないようにする人も多くいました。
    店側でも使いづらいのか、以前に書いたことがありますが有名お弁当チェーン店で9000円のお釣りを二千円札4枚と千円札1枚というとんでもないお釣りでもらったこともあります。
    普及のためには流通させること、金の流れを作ることが大切ですが、どちらかというと金の流れと言うよりは使えないので押しつけ合っていたという言い方が正しい表現だったかもしれません。

    市場から消えていく二千円札

    普及しなかった理由はいろいろあると思いますが、まず最初にデビューしたときにATM未対応や自販機未対応、つまり対人販売でしか利用できなかった事があげられるでしょう。
    そもそも、高額紙幣を持っていても生活できる日本、わざわざ細かい紙幣を持つ意味がありません。
    さて、そんな二千円札ですが、一部の企業にとっては大きな利益の元となりました。というのは二千円札対応のためのシステム設計や認識のためにセンサーを作成している業者は特需といえる物が発生。
    いろいろなところでこの新しい紙幣への対応に追われたあげくにさっさと市場から退場したのではたまったものではないんですが、これも仕方がないことなのかもしれません。
    現在では1億枚以上が市場にあるとも言われていますが、私自身ここ5年くらいは見かけていません。また、旧五百円札より枚数が少ないとも言われていることを考えると、見かけないのは当たり前かもしれません。皆さんも今、旧五百円札を古銭屋以外で見かけることってありますか?それと同じ事なんでしょう。

    一足お先に終演をむかえた二千円札

    このように一過性の物になってしまった二千円札、現在では生産されておりません。
    また、一部のATMなどではすでに取り扱いを中止し使う事ができなくなっています。
    長いこと生産をしていないようで、10年の月日がたっていると言います
    元々二千円札自身が実験的な存在であったとも思えています。議場防止技術に関してはその後2004年になって同じ技術が他の紙幣にも使われるようになりましたし、銀行や自動販売機などを対応させるための仕事の発注を増やす事で小さいながらも景気対策の一環となること、首里城という沖縄の遺産と中世日本の紫式部という歴史の融合。
    今となってはそのすべてが意味のある行動だったとは言いがたく、日本中を巻き込んだ一大実験は失敗に終わったというところでしょうか。
    これから先、目にすることは少なくなるでしょうし手にすることも人によっては二度とないことかもしれません。
    使い勝手は悪かったのは事実、しかしよく見てみるとデザインはよくできていて美しいとも思えるデザインが施されていました。
    なくなってしまうのは残念ですが、必要がなかった物が消えていくのは市場原理です。仕方がありませんね。